運営者情報

皆さんこんにちは

はじめまして、当ブログ運営者の「弱者」と言います。
ひどいネーミングセンスですね。
でもま、自分は弱者だと思うので、弱者で行こうと決めました。
弱者を卒業したら、名前も変えようと思います。

サイト名:主観が強い
ハンドルネーム:弱者

サイト名の由来

しゅ かん -くわん [0]【主観】
①対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき、またそのはたらきをなす者。通例、個別的な心理学的自我と同一視されるが、カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え、これが客観的認識を可能にするとする。 → 主体
自分ひとりだけの考え。 「 -だけで言うのは困る」 「それは君の-だ」
▽⇔ 客観 〔西周(にしあまね)訳「心理学」(1878年)に英語 subject の訳語として載る〕

Weblio辞書

主観と一口に言っても、その意味には小さからぬ幅がありますね。言葉は多義的で曖昧です。Weblio辞書には、①カントによる超越論的主観と、②一般的な意味での主観とが挙げられています。①と②では雲泥の差がありますね。僕がこのブログのテーマとして定めたのは、②の意味の主観。

自分ひとりだけの考え

この主観を脱したいと切に思っている訳です。とはいえ、主観のない人間なんて人間ではありませんから、これを完全に自分の中から消し去ることはできません。僕もそのことを望んでいる訳ではないです。僕の望みは、心の苦しみを消すこと。自分を苦しめる、自分の観念(即ち主観、強い主観)を殺すことです。これをどうにか成し遂げたい。いい加減成し遂げたい。平穏と飛躍のために、成し遂げなければならない、そう思っています。

消えない主観、付き纏う主観

人を苦しめる主観というのは、ほとんどの場合、幼少期~青年期に芽生えるものだと思います。僕の場合もそのような感じでした。コンプレックスとかトラウマと読み替えてもおかしくない。むしろ、両者は同等と言えるかもしれません。

コンプレックスやトラウマが芽生えたきっかけは、人それぞれですね。端的なイメージを挙げると、何らかの虐待いじめ、その類のものが頭に浮かびます。僕には、いかにもな虐待を受けたという過去はないですが、意味を広げて考えれば、人の心に苦しみを植え付けるような行為、出来事はすべて虐待といっていいかもしれません。悪意を持って虐待を行った者は、地獄に堕ちればいいと思いますが、無自覚に行われた虐待なんてのもありますね。「ちょっと何かを注意した」なんてことが虐待と呼ばれることはそうないと思いますが、注意を受けた少年・少女は感情的な反感や虚しさを覚える。というのは、それ以前にも、自己否定につながるような同質の注意を幾度となく受けているから。注意した人は同一人ではないですが、少年・少女の自己肯定感は注意を受けるたび着実に欠落していく。そうして、欠如した自己肯定感が数十年と付き纏う。その一例が僕です。

たしかに、愛すべきみじめな少年だった自分と比べたら、今の自分は精神的な成長を遂げている。そう思える心境になっている。でも、「過去を克服した」という感覚はない。「上手く付き合えるようになった」という感覚に近い。依然として、不自由感があります。他人をうらやましく思い、対比的に自分を卑下する。誰かに注意を受けると、感情的になる、元気がなくなる。あるいは、自分が何を感じたのかは上手く意識できないけど、なにか、脳が重くなる感じ。体も滑らかに動かない。身体の節々にオイルが足りてない。対人的な反応に翳りが出る。そのことに戸惑う。はたまた、インターネット特有の莫大な情報量に触れると、自分がどうも小さい人間であるように感じる。絶望感に囚われる。

主観を叩き潰す

この、人様の精神の跳躍、もとい飛躍を妨げようとするかのような憎き主観を叩き潰したい。この悪魔は、明らかに人生の質を落とさせる、生きることの喜びを減少させる。可能性を略奪する。それだけは実感をもって言える。これまでがそうだった。これからも、そうなのか?

あぁ憎い。憎い憎い憎い憎い…

でも、どうやって叩き潰す?

コンプレックスやトラウマの乗り越え方には、どうやら、あまり画一性がないように思えます。幸せになる法則のようなものは、インターネットで検索すれば色々出てきますから(「へー」って感じ)。

身近な例で言えば、僕が昔、極真空手をやっていたときに、一人の青年が入門してきた。見るからに優しそうで真面目そうな面構え。僕より少し年下のその子はどうやら、過去にイジメにあっていたらしく、自分に自信を付けるというのが主な入門の動機のようでした。僕はその子と二度ほど試合をしたことがあり、最初の試合で僕は彼をボッコボコにしてやった。だけど、二回目の試合で僕はボッコボコにされた。その時、彼は「君、岩?」みたいな感じに成長していた。明らかに何かを乗り越え、何かを達成したような雰囲気を醸してた。

僕も彼と似たような動機で極真の門を叩いたんですけどね。どうも何かを掴める感覚は得られなかったので、辞めてしまいました。変わりたい、変わろうという気持ちは僕も強かったんですが...。というように、人が悟りを得るのには、個別性があるんだろうというのが僕の印象です。

仏教、禅に賭ける

「コンプレックスやトラウマの乗り越え方には、どうやら、あまり画一性がない」などと言っておきながら、仏教にはどこか可能性を感じている自分がおりまして、これを活用したいと思っています。やはり仏教は内面に働きかける普遍的な力を持っていると思うんです。特にそう感じたきっかけ、これはこのブログを刷新したきっかけでもあるのですが、それは

臨済

という存在に触れたこと。
歴史の授業で目にした方も多いと思います。僕も同様ですが、今となってはもう、そういう名前の人がかつて存在した...程度の印象しか無かった。そんな中、インターネットの情報がきっかけで臨済に興味を持つに至ったんですよね。「臨済録」という書籍が岩波文庫から出てまして、これを読んでみようと思い、Amazonでポチりました。

この投稿を書いている時点では、まだ数ページしか読めていないのですが、どうにも面白い。もっと適切に表現すると、意味不明なおかしさが感じられる。「漢文であるから故の意味不明さ」というのもあると思うのですが、臨済とその話し相手との間で繰り広げられる問答が「え?どういうこと?」といった具合で興味を引かれています。何かそこに鋭敏な感性の動きを感じるんですよねー。

何かに一定の興味を引かれることは、新しい世界を知れる可能性だと思うんです。臨済録を読みつつ、このブログを更新し、我が憎き主観我が心の悪魔、を抹殺する取っ掛かりにしようと、ひとまず思います。僕の主観は、誰かの主観。有意義な情報を提供できたらとも思っています。


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Posted by 弱者